ゼミと就活

自分の話ばっかりします。

お家が大好き

昨日の続き。なぜお兄ちゃんと同じ部屋で暮らすのが嫌なのに実家暮らしを続けているのかについてちょっと書こうと思います。

 

私は家が好きだ。家についていろいろ文句はあるけど、15年強過ごして順応してきた家を簡単に捨てることはできないと思っている。家族四人でなんとか回している生活のサイクルを変えるのは寂しいなと思うし、自分がいなくなったら家が変わってしまうのも怖い。要するに、家族関係を家という場所に依存しているんだと思う。家がなくなっても血のつながりが消えるわけじゃないのに、私が家を捨てたらつながりが希薄になってしまう気がする。それが怖くて家を出れない。家族の繋がりを信用できない。

 

親離れできない、というのは結構よく聞く話だ。私はもう成人しているけど、大人と言われる年齢になっても精神的に親離れできない人というのはたまにいる。

例えば、私の友達は親に笑われるのが嫌でやりたいことができなかったらしい。その友達のやりたいことというのはバンドなのだが、その子の親はまさにバンド関係の仕事をしており、子供心に親の専門分野に足を踏み入れる勇気が出ず、かといってやりたい事を諦めることもできず、立ち止まってしまったらしい。(またこの親が子供の挑戦を過剰に囃し立てるタイプだったらしく、それも一歩踏み出せない事にマイナスに影響したそうだ)。別に立ち止まる事は全然かまわないのだがその原因が親であるのはちょっと面白い。

こういう親離れできない人というのは、偏差値の高い学校で教育を受けており、なおかつ自分の意思が弱い人に多い気がする。あと女の子に多い!大事に育てられた分だけ親離れできないのかもしれないし、大事に育てるということと良い学校に入れるということがイコールになっているのかも。女の子に多いのは、家庭の事を感知するアンテナが高い人って女の子に多いんだと思う。

なんにせよ、家を離れられない私にとって、親離れって他人事じゃない問題なのだ。

 

大好きな本の中の一つに、桜庭一樹の「ファミリーポートレート」がある。これはとある母子が一緒に旅をする話なのだが、母と子の関係が、まー業が深い。一番のテーマは親子愛なのだが、それに付随して母から子に対するDVや、親の売春や心中(未遂)など、いろいろネガティブなことが書かれている。全部愛情から出発した行為なのに悪い方に進んでしまうし、子もそれをわかっているから親を律したりしない。親を許すとか許さないとかではなく、ただ親が好きだから一緒にいてしまう、という関係を描いている。

(とてもざっくり書いたけど、DV一つとっても母の葛藤子供の葛藤が丁寧に、かつおとぎ話のような綺麗さで書かれていて、桜庭一樹直木賞作家である所以だと思う。私は桜庭一樹の本の中でこれが一番好きなのでぜひ読んでみてほしい…。)

ここまで壮絶な親子関係ではないにしろ、大抵の母娘はファミリーポートレートと同じような、変な愛情関係を経験したことがあるのではないだろうか?私はめっちゃワカルーと思いながら読んでいた。

 

私が家に不満を持っていても一人暮らしできないのは親離れできないからだし、更にその原因は家族を信用してないからなのかもと思いました!

親離れできないってサイコーに甘えててチープな問題だけど、意外と文字数書けてしまったのでもしかしたら考える価値ちょっとはあるのかも?それともただの深夜テンションかもしれない。

もっとかっちりした文章で書けばその分情報が洗練されていくかなと思うので一晩置いて明日また考えてみようかなと思います。

私のお兄ちゃんについて

私には二歳半年上のお兄ちゃんがいる。このお兄ちゃんが、電車と並んで私にとって因縁の深いものになり得るのではないか?と思いメモを書く事にした。

 

・家族の中でもなぜお兄ちゃんだけをピックアップして因縁つけるのかというと、私がお兄ちゃんと同じ部屋で生活しているからだ。

うちは狭いので自分の部屋を持つ事ができなかった。長方形の9畳の部屋をカーテンで仕切って半分こして使っている。年頃の男女が同じ部屋で生活するなんて大変きびしい。お兄ちゃんが彼女と電話する時だけ猫なで声になるのも、夜な夜な筋トレをしている暑苦しい声も全部聞こえてくるのだ。正直キモい。

他にも夜に部屋の明かりをつける時は極力明かりがもれないように電球に布をかけなくてはいけない(戦時中かよ)、など、色々な制限がある。私もお兄ちゃんもパーソナルスペースが広い方なので結構ストレスがたまる。どちらかが受験をしている時は特に大変だった。

 

・そんな私とお兄ちゃんの最大の共通点は将来の夢だ。二人とも、自分の部屋がある家を持つ事を目標にしている。(だから私は絶対にきちんと就職して安定した収入を手に入れたい。)

 

 

・夫婦間の愛情にしろ、ファンがアイドルを推す気持ちにしろ、愛というものは三年しか保たないらしい。これは確か高校生の頃保健体育の教科書を読んで得た知識だ。

一つのものを長く愛し続けるためには、愛情が切れるまでの三年間でもう一度そのものに惚れ直さなければいけないらしい。だから、兄弟は三歳差で生まれてくる事が多いんらしい。

 

うーーんやっぱり抽象的でふわっとしている。数字にこだわろうって昨日決意したばっかりなのに、どうしてこんなに観念的な話になってしまうんだろう?数字にこだわるって具体的にどうすればいいのかなあ そこも考えなきゃだめだなあ

電車について思う事

私の卒業制作のテーマは電車だ。なんで私が電車に因縁を感じているのかを語りたくて、覚え書きのようにメモを書いてみた。書き終わって読み返してみると自分の考えのまとまりのなさに呆れたが、どこを捨ててどこをまとめるべきなのかちょっとだけ見えた。やっぱり文章にする力はすごい。せっかくなので私の備忘録としてインターネットに上げておきます。

 

・子供の頃からなんとなく電車には縁があった。中学受験をした私は小学四年生の頃から電車に乗って塾へ通っていたので、もう通算10年以上は電車で通学していることになる。

子供の頃夢中になってやったゲームの「ペーパーマリオRPG」では、リッチリッチエクスプレスという豪華鉄道のマップが特に印象に残っていた。

 

・昔バンドをやっていた時、駅のホームで電車を待っている時、一番素直な事が考えられるという内容の歌詞を書いた事がある。私はとても気に入っていたが、誰からも共感は得られず悲しかった。

歌詞にすることで、電車のホームでしかできない類の考え事があるかもしれない、と意識するようになった。

 

・私は大学へ通学するために毎日ものすごい長い時間電車に乗っている。ほぼ毎日大学に通っていた一二年生の頃は最も通学が大変だった。

一番記憶に残っていることは、わたしが使っている電車全部が運転見合わせ、もしくは遅延した日だ。その日私の祖母が臨終で、急いで家に帰らなければならなかったのにどんなに電車に乗り継いでも一向に家に着かない。ある路線は運転を見合わせ、迂回するために乗った他の路線も運転が遅れていた。早く帰らなくちゃという気持ちもあったが、祖母のことで空気が沈んだ家に帰るのは正直気が重かったので、電車に感謝してしまったことを覚えている。

 

・私は大学で演劇を学んでいるけど、大学生活を総括して一言で表すと電車だ。これは、毎日何時間もかけて遠くの大学まで通っていた、という意味の他に、その電車を上回るほどの経験を大学の勉強でできなかったという意味も込められている。せっかく何時間もかけて大学へ足を運んでいるのに、あまり多くの授業を履修できなかったり、履修した授業を深く掘り下げられなかったり、学びたい内容の授業がそもそも無かったり…大学のせいでも自分のせいでもある諸々の悔しさも込められた一言だ。

 

・電車は目的地まで私たちを運んでくれるけど、その後の面倒は何一つ見てくれない。電車はただの移動手段だが、道具と言い切ってしまうには業が深すぎる。そういうものだ。

・先日母が劇団鹿殺しの「電車は血で走る」を観に行ったらしい。そこでは電車がキーワードの一つとして演出に組み込まれており、電車の速度や音、動作、機械構造や線路網の複雑さなどに焦点が当てられていたそうだ。電車はあくまでツール、というスタンスに共感した。私も観に行きたかったが、あいにく懐が寂しかった。

 

 

こうやって電車に関する思い出を並べてみても、まだ一つ一つのエピソードはばらばらで結びつかない。なんならエピソードの総数も圧倒的に少ない。これらをどうやって束ねていくのかがよくわからなくて、縦糸を探している。今は卒業制作の中でそういう段階です。

最近のトレンドは数字にこだわってリサーチをすることです。私は数字という存在が大っ嫌いで、高校生の時に数学で学年最低点取ったこともあるくらいです。なのになぜ数字にこだわろうとするかというと、一番苦手な数字にこだわれば、その過程でその他の要素たちも詳細に見る事ができると思ったから。まだ始めたばかりだから上手くいくかわからないけど、解像度の高い情報目指して数字を追います。

やらなきゃいけないことばっかだ!

柳本浩市展

柳本浩市展を見に行った。

柳本浩市は様々なものを収集し、編集することで時勢を読んできた。そんな柳本浩市をアーカイブをする人「アーキヴィスト」と捉え、収集物を展示する事で、柳本浩市の収集と編集の流儀をおすそわけしてもらおうという展示だ。

 

情報氾濫社会の中で一番必要な資質は、情報を取捨選択し、自分にとって価値ある情報を体系だてる能力だ。

大学に入ってから知った言葉の中にキュレーションがある。キュレーションとはアートの分野でよく使われる言葉で、私の理解では膨大な情報を今までになかった視点から編集し直す事によって、情報に新しい価値を与える仕事を指す言葉だ。柿本浩市が言う所のアーカイブとよく似ていると思う。私は大学で少しキュレーションについて齧っている。せっかく大学でキュレーションを学んでいるんだから、アーキヴィスト柳本浩市の流儀についても是非知りたい、という気持ちでわりと真面目に展示物を見ていた。

 

私がこのブログを始めた理由もそうだけど、物事にはインプットとアウトプットがあって、インプットとアウトプットの間にどれくらい自分の目線やオリジナリティを通せるかが制作上の勝負どころだ。だから、アート作品に限らず、何かを作るときにインプットと編集の手法を考える事はとっても有意義で成果物の出来を左右する事だと思う。

展示では、柳本浩市の膨大な収集物の他にも丁寧な保存方法やそれをまとめる方法について触れられていた。私が印象に残ったのは洋服のまとめ方だ。ジャケットを収集するとき、柳本さんはジャケットの説明とともにスケッチを描く。その緻密さや根気強さが価値あるアーカイブの秘訣なんだろうと思う。

 

会場に流れていた「アーカイブ個人収集論」という授業の記録映像の中で、柳本さんは膨大な情報を編集することで時勢を読む事を説いている。

人間の性質は大きく分けて理性と感情の二つがあるらしい。理性的な物が流行すると、コンクリート打ちっ放しみたいな無機質な建造物が流行ったりするし、感情的な物が流行すると定年後に農業をやるのが流行るらしい。理性と感情の波は交互にやってくるから、今どんな波が来ているのかを収集を通じて把握する事で、少し先の未来にどんな性質のものが流行るのかがわかるそうだ。すべての分野にその波はあり、分野ごとに次にくる波を予想する事によって、社会全体の未来がわかるようになるという。すごい処理能力だと思った。

未来を読めるほど多くの情報を処理できるのは限られた天才だけだ。でも、天才の根気強さを真似る事で、少しでも良いインプット・編集が可能になるかもしれない。私も、この人を見習ってもっと根気強く丁寧に情報を扱おうと心に決めた。とっても現実的で即物的な、ビジネス書のような展示だった。

 

柳本浩市の展示は決して情緒に訴えかける物ではなかったが、勉強しなくちゃいけない、頑張らなくちゃいけないという気持ちにさせられた。私は収集癖がある訳ではないので柳本さんと全く同じ方法でアーカイブを作るのは無理だろう。でも、私にもできるやり方を見つける事ができればいいなあと思った。

頑張ります。

就活なんてやめちゃいたいけどやめられない。

 

就活は自分の能力とか個性をいかに発揮できるか、という点以外に、どれくらい演技に徹せるか、という勝負でもある。にこやかで明るく、清潔な大学生を演じなければいけない。そういう演技に価値がついてしまう世の中が嫌だ。そんな演技続けたところで、私の人生に何かプラスになるかなあと思っちゃう。

でも就職はしなきゃいけないから、そんな事言ってないでとにかくやらなきゃなあと思う。第一志望落ちましたが。それでも無理矢理でも未来に希望を見つけて頑張んなきゃだめなんだ。

 

別に就活なんてドロップアウトしちゃってもいいと思う。でもなるべく就活やめたくない理由もある。私は就活一つ満足にできない自分の事を肯定できないのだ。自己肯定のために就職しようとしている。

就職したいと思ってる以上、社会の変なシステムに組み込まれちゃうのはしょうがない。そういうよくわからない体制がいくら嫌いだと思っていても、体制に真っ向から歯向かうより、適当に受け入れて、体制の中で命令を適当に聞き流しながらちゃらんぽらんにやる方がいい。そう思ってる。

そういうちゃらんぽらんさがある程度認められる会社に入りたいなと思ってる。そのためにはもうちょっと頑張って就活をしなくちゃいけない。

 

だから、就活全然やりたくないけど、これ以上やっても志望企業に受かる可能性ないかもしれないけど、でももうちょっとやってみようと思いました!頑張るぞ!明日から!

卒業制作の進捗

卒業制作で今後どんな作業をすべきなのかがちょっとだけわかってた。

私に今足りてない事は、お客さんの顔を思い浮かべるという事かもしれない。

 

卒制の進捗を先生に報告した時、誰に向けて制作をしているのかが曖昧である事を指摘された。確かにその通りだと思った。自分のコンプレックスを解消したくて卒制を始めたけど、ただのコンプレックスの暴露で終わっちゃだめで、暴露以上の価値を持たせなきゃいけない。先生が言うには、暴露の価値を上げる手段として、コンプレックスを拡大して他者と共有することがある。どんな人に対して自分のコンプレックスを共有できるかわかっていないと、共有することもできない。だから自分だけじゃなくて他人にも目を向ける事が大事だと思った。

 

 

芹沢銈介美術館

先日、静岡市立芹沢銈介美術館に行ってきた。後に予定が控えていたので30分くらいしか居れなかったけど、魅力の片鱗くらいに触れることはできたと思う。

そこで感じた事、片鱗について書きます。

染色の展示を見るのは初めてだし、美術に関してほとんど知識がないので、これから書く事が間違ってたらごめんなさい。

 

芹沢銈介はよく身近なモチーフを使って染色のデザインをするらしい。今回は「芹沢銈介と沖縄」という企画展だったため、沖縄の日常風景である、壺を運ぶ人々をモチーフにしたものなどが飾ってあった。

彼は世間一般の人々が日常使う品を染める事に熱心だったらしい。(記憶が曖昧なので細かいニュアンスに自信がない。話半分くらいに読んでほしい。)

確かにピアノカバーとかうちわとか、身近な道具を染めていた。染色を身近な工芸品に落とし込んでくれたから、私みたいな美術初心者でもわかりやすく見る事ができた。

 

染色はおそらくあまり細かい図柄を描くのに適していないんだろうと思った。絵画とかの背景までがっつり書き込む表現方法と比べると線の数が格段に少ない。その分一番表現すべき事をストレートに、だからといって安易な表現ではなく、よく練られた絵で表現してる事が伝わってきた。

物事を突き詰めると単純になる。単純だとわかりやすいし、色々な事に応用しやすい。工芸品は日常生活の一部で、尚且つそのデザインはもともと日常から生まれている。日常で生まれた物が日常へ帰っていく。その循環がとても健全で、正しい感じがして良いなあと思った。

洗練された単純さが好きだと思った。

 

 

断片的な話しかできない上に一つ一つの話も大して深くなく、私がこれを書いた所でかえって芹沢銈介美術館を貶めてしまうのではないかと心配です。が、私の言葉が足らないだけで、本当に綺麗な展示でした。また行きたいと思っています。

 

以上です。

 

静岡市立芹沢銈介美術館

静岡にお立ち寄りの際は是非見に行ってください。JR静岡駅からバスで10分。登呂遺跡に隣接した美術館です。