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自分の話ばっかりします。

ソール・ライター展 続き

ソール・ライターの話の続きです。ソール・ライターの絵が全然理解できないと前回書いた。でも、画家の視点をとっかかりにしてソール・ライターの写真について考えられたのと同じように、きっと彼の絵も写真家の視点をとっかかりにして考えられるんじゃないかと思った。だから最近は、写真家の視点とは何か?という事を考えていた。

 

この間、写真を専門にしている友達と長電話した。その友達は最近ストーリーとドラマの違いについて考えているらしい。両者の違いについてその友達の意見を聞いた所、写真家ならではの視点が垣間見えたような気がしたのでその事について書く。

ここで言うストーリーとは「筋書き」で、ドラマとは「劇的な出来事」という意味だ。起承転結がそのまま物語の劇的な出来事になっているのではなく、登場人物のちょっとした描写が観客の心にぐっとくることがある。そういう瞬間をドラマと呼んでいる。

 

それで、ドラマが生まれる場所は表現のメディアによってちょっとづつ違ってくると思うのだ。

例えば、男が女にコーヒーを渡す、というシーンがあったとする。

演劇だったら、男と女とコーヒーそれぞれが強い個性を発する。三者が特に絡まなくても、ただそこにいるだけである程度作品が出来上がる。登場人物の個性がそのままドラマに繋がるかもしれないし、個性の強いもの同士が絡むことがドラマになるかもしれない。

音楽だったら、一つ一つの個性が薄くても、三者を複雑に絡ませる事で作品を作り上げる。演劇とは逆で、一つ一つの個性が強すぎると作品としてくどくなってしまう事が多い。だから、演劇よりは構築美を味わう場合が多いと思う

それで肝心の写真なのだが、写真家の友達によると、男と女とコーヒーがそこにある、という当たり前の尊さを噛みしめることが写真なんだという。

 

そこにある事が当たり前のものを見せる、という考え方はなるほどなという感じがして、確かにソール・ライターの作品に通づるところがある気がする。

ソール・ライター展では展示の最後に短いドキュメンタリームービーのようなものが流れていて、その中でライターは、世の中に普通に存在するものの尊さを説いていた。ソール・ライターは家の周りで散歩しながら写真を撮る事が習慣となっていたらしいが、毎日同じコースで散歩していたとしても、良い写真が撮れるのだという。同じ被写体であっても、毎回違う写真が撮れるそうなのだ。

ソール・ライターがそうやって写真と向き合っていたなら、写真についての考え方が絵にも応用されている可能性は高い。あのソール・ライターのよくわからない絵を、そういう切り口から考えてみる事は意味ある事かもしれない。

 

ソール・ライターの展示はもう終わっちゃったので、私が上で考えた事を確認しに行く術はない。でも、自分の中で整理することで、全く意味がわからないものから意味がわかるかもしれないものに格上げできたので良かったかなと思います。

以上です。