ゼミと就活

自分の話ばっかりします。

「就活を経て変わったね。」こういう言葉が苦手だ。こういうのは主に就活のせいで疎遠になってしまった後輩たちから言われる。「とっつきずらくなった」という意味で言われているような気がしてならない。就活があるとほとんど学校に行かなくなるから、学校に行かないと会えない人とは疎遠になってしまう。友人関係の深度は関係ない。人間はちょっとずつ変わるし、就活してると学校外の社会の一端に触れるから、余計価値観が変わりやすい。一定期間会えないと、再開した時に変化が大きすぎて受け入れられないこともある。そういう意味も込めて「就活を経て変わった」という言葉が出てくるのかもしれない。そういうことが苦手だ。

そんなこと言ってないでもっと仲良くしてよ、と思ってしまう。

 

私の一つ上の先輩が就活をしていた時、私も先輩に向かって「就活を経て変わりましたね」と言った事がある。

その先輩は私とバンドを組んでいた先輩だ。その先輩は就活が長引いていたので、就活が終わって久しぶりに会った時、最後に会った日から8ヶ月経っていた。

その8ヶ月の間に私はドルオタに転落しバンドから離れ、その先輩はバンドを本気でやりたいという気持ちを強めていた。バンドが好きだという気持ちで保っていた友人関係が、8ヶ月の間に崩れてしまっていた。

久しぶりに会った先輩に何を話していいのかわからなくて、つい「変わった」と言ってしまったけど、そんなこと言ってないでもっと仲良くする努力をすれば良かったと後悔している。

 

だから、私はなるべく早く就活を終わらせて友達のところへ戻りたい。

就活を経ても変わらないことはあるけど、変わってしまうものも多い。変化を甘んじて受け入れる柔軟さが足りないのかもしれない。

文章を書くのが苦手

文章を書く時に必要以上に考え込んでしまう事がよくある。そのせいで、私は文章を書くスピードが遅い。就活の選考で出題される作文問題とか、大学の授業でのリアクションペーパーとか書く時はいつも時間との戦いだ。何を書くべきか、どんな構成で書くべきか、どんな文章を書こうかと考える時間が人より長いのだ。(そのわりに書く文章は人並みである)

作文選考で時間に追われるのはどの就活生も同じだと思うが、私のスピードはおそらく群を抜いて遅いと思う。制限時間が設けられてると、緊張しいな性格も手伝って途端に文章が書けなくなってしまう。

家で書いてきた作文を提出するのは全然かまわない。いくらでも時間をかけていいなら、むしろ文章を書くのは得意な方だ。なのに、なんで作文選考がある会社は時間制限を設けてくるんだろう。いつも困ってる。

 

このブログを書くのだって、すごく時間をかけている。

いつも、だいたい1時間か2時間くらいかけて一つの記事を書いている。500字しか書かないような時でも、2時間かけてたりする。時間がもったいないと思う。

ずっと文章を書き続けていれば、そのうち時短のコツがわかってくるのだろうか。

 

めちゃくちゃ月並みだけど、時間を短縮しようとする工夫はどんな分野でも大事だ。短い時間で成果を上げられたら生きるのに余裕ができる。私は文章書くのは好きだけど、文章書くと疲れるから毎日ブログ書くのは嫌だなと思っている。でも毎日余裕でブログ書けたらそれが一番いい。

それに、もし私が短い時間で文章を書く方法を身につけたら、就活でも、その後の人生でも、きっと役に立つ。

だから時短!文章を書くのに必要な手順を把握すれば、おのずと時短の道も見えてくるだろう。無意識にやりがちなことを意識する事から始めよう。

選考会場で涼しい顔して名文を書き上げられる日を待ってる。

悲しい事があった時に、それを人に話して発散するという事が苦手だ。

悲しい事を人に打ち明ける時、もう一度悲しかった事を思い出して話さなければいけない。そうするとまた悲しくなって、余計気分が沈んでしまう。

だから、悲しい事があった時は楽しい話をする事で元気になりたい。

 

卒業制作もなんかそんな感じでできたらな〜と思ってはいるけど、まだ具体的な方法は考えてない。

なーーーーんか良いことないかなあ

就職活動

卒業制作のリサーチのためにおじいちゃんに電話をかけたら、就職活動はやってるのかって聞かれて気まずい気持ちになった。心配してくれてる気持ちがありがたいと同時にプレッシャーだった。

就活はやってるんだけど、結果は芳しくないし、さぼっちゃうこともあるからゆっくりとしか進んでいない。胸を張って「私は今本当に本当に努力してます!」と言える状態ではないなあと思う。

 

間口の狭い業界ばかりを受けていたせいで、未だ内定を一つも持っていない理由が自分の能力にあるのか、それともただの巡り合わせの問題なのかがよくわからない。

よくわからないものに立ち向かうことはできないから、もうすこししっかり自分を把握しなきゃいけないのはわかっているけど、嫌な作業だからなかなか前に進めない。

前に進めないから焦るし、焦るとさらに嫌な気持ちになるから、余計作業を進めるのに体力がいるようになってしまう。

 

でも、それらの全部をひっくるめて「就活やってるの?」という質問に答えようとすると、やってるよ、でも思わしくないよ、と答えるしかない。そんな返事をしたらまた心配をかけてしまうに決まってるんだ。

プレッシャーから解き放たれるには一刻も早く内定をもらうしかない。頑張らなきゃ。

 

プレッシャーとかプライドとか、そういうよくわからないものに縛られている状況が、苦しい。

 

 

 

今日、就活帰りに友達のバイト先におやつを食べに行ったら、コーヒーをサービスしてくれて、カップにいろいろメッセージを書いてくれた。すごく嬉しかった。

 

就活やってると全然人と話す機会がなくてさみしい。

家族とは話すし、企業の人事担当とも話すけど、それだけだ。友達に会いたい。

 

人と会わないと考え方がだんだん後ろ向きになってくる。学校に行かない生活を続けると、全然人に会わなくなる。他に用事がないのにわざわざ会って遊んでくれる人はとっても貴重だ。いつもありがとお。友達が好き。

ソール・ライター展 続き

ソール・ライターの話の続きです。ソール・ライターの絵が全然理解できないと前回書いた。でも、画家の視点をとっかかりにしてソール・ライターの写真について考えられたのと同じように、きっと彼の絵も写真家の視点をとっかかりにして考えられるんじゃないかと思った。だから最近は、写真家の視点とは何か?という事を考えていた。

 

この間、写真を専門にしている友達と長電話した。その友達は最近ストーリーとドラマの違いについて考えているらしい。両者の違いについてその友達の意見を聞いた所、写真家ならではの視点が垣間見えたような気がしたのでその事について書く。

ここで言うストーリーとは「筋書き」で、ドラマとは「劇的な出来事」という意味だ。起承転結がそのまま物語の劇的な出来事になっているのではなく、登場人物のちょっとした描写が観客の心にぐっとくることがある。そういう瞬間をドラマと呼んでいる。

 

それで、ドラマが生まれる場所は表現のメディアによってちょっとづつ違ってくると思うのだ。

例えば、男が女にコーヒーを渡す、というシーンがあったとする。

演劇だったら、男と女とコーヒーそれぞれが強い個性を発する。三者が特に絡まなくても、ただそこにいるだけである程度作品が出来上がる。登場人物の個性がそのままドラマに繋がるかもしれないし、個性の強いもの同士が絡むことがドラマになるかもしれない。

音楽だったら、一つ一つの個性が薄くても、三者を複雑に絡ませる事で作品を作り上げる。演劇とは逆で、一つ一つの個性が強すぎると作品としてくどくなってしまう事が多い。だから、演劇よりは構築美を味わう場合が多いと思う

それで肝心の写真なのだが、写真家の友達によると、男と女とコーヒーがそこにある、という当たり前の尊さを噛みしめることが写真なんだという。

 

そこにある事が当たり前のものを見せる、という考え方はなるほどなという感じがして、確かにソール・ライターの作品に通づるところがある気がする。

ソール・ライター展では展示の最後に短いドキュメンタリームービーのようなものが流れていて、その中でライターは、世の中に普通に存在するものの尊さを説いていた。ソール・ライターは家の周りで散歩しながら写真を撮る事が習慣となっていたらしいが、毎日同じコースで散歩していたとしても、良い写真が撮れるのだという。同じ被写体であっても、毎回違う写真が撮れるそうなのだ。

ソール・ライターがそうやって写真と向き合っていたなら、写真についての考え方が絵にも応用されている可能性は高い。あのソール・ライターのよくわからない絵を、そういう切り口から考えてみる事は意味ある事かもしれない。

 

ソール・ライターの展示はもう終わっちゃったので、私が上で考えた事を確認しに行く術はない。でも、自分の中で整理することで、全く意味がわからないものから意味がわかるかもしれないものに格上げできたので良かったかなと思います。

以上です。

ソール・ライター

渋谷文化村で開催中のソール・ライターの展示を見に行ってきた。

 

ソール・ライターはニューヨークの写真家だ。写真家と言っても本人は画家になりたかったらしい。生計を立てるための手段としてファッション写真を撮っていたところ、絵よりも写真の方が有名になってしまったそうだ。

そんなソール・ライターの写真は、画家だけあって絵に近いという印象を受けた。

ソール・ライターの写真はただ事実を捉えているだけではなくて、写真を使って人間の内面も映し出している。とってもよくできた写真なのに撮り方がわざとらしくなく自然だから、見る側も自然に写真の意味を受け取れる気がする。展示の中ではこの自然な撮り方のことを「覗き見的手法」という名前で呼んでいた。事実を描写しながら、同時に覗き見のように人間の内側も描写するところが画家らしくて、ソール・ライターの写真が絵画のようだ言われる所以だと思う。

例えば、私が好きな漫画家で売野機子がいる。ソール・ライターと売野機子は風景の捉え方が似てるんじゃないかと思ったので売野機子のインタビューを引用させて頂く。

 

natalie.mu

このインタビューを読んで、ははあ風景じゃなくて情景かあ…と思ったものだが、ソールライターの写真は風景と情景をいったりきたりしている写真が多いように感じた。あえてピントの合っていないものを主題にしたり、被写体の視線の動きを主題にしたり…叙情的な写真が多いなと感じた。

売野機子は漫画家だから絵を描くし、ソールライターも絵描きだった。情景を描くという絵描き特有の視点が二人には共通しているのかなと思った。

 

展示では、ソール・ライターの写真の他にソール・ライターが書いた絵も展示されていたが、こちらはさっぱり意味がわからなかった。いろんな色が塗られた紙にしか見えなかった。

色をどんどん重ねて絵を描いていく過程がジャズのようだ、と評されているようだが、全然わからない。こちらの絵にも、もしかしたら写真家独自の視点があるのかもしれない。絵についての詳しい解説をもっと聞きたかった。

 

同じ作者の作品でも、メディアによってわかったような気になったりならなかったり。どんな形式で作品を作るのかって大事な要素なんだと思った。